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父親の死について、今感じていることを書き記したいと思う【追悼】

この記事は何年後、何十年後に自分自身が見たいし、記憶と記録に残しておきたいため、書き記していくことにする。

 

何の因果かわからないけど、この探しづらいところに置いた記事を見つけた人は、何かの運命と思ってぜひ最後まで読んでいってくれると嬉しい。

 

将来、紙にして残しておいたものを失くしてしまったり、何かの拍子に残していたWordなどのデータが見られなくなったりするかもしれないと思ったため、Web上に残しておくことにした。

 

これからもずっとWebに残り続けていくことを祈っている。

 

また、いつになるかわからないけど、母親が亡くなってしまった時にまた見ることになると思う。

 

どのように書いていけば良いか悩んだけど、とりあえず時系列に沿って書き記していこうかと思う。

 

また、この記事は最初はタイトルを付けずに、記事の表示が2ページ目になったくらいにタイトルを付け直してWeb上で見れる状態にしていこうかと思う。

 

母親からのLINE電話

普段母親からLINEはあまり来ないし、電話なんかLINEで来るときは緊急の場合だと思っていた。

 

LINEの履歴がいつ消えてしまうかも分からないので、ある程度は原文のまま載せていくことにする。

 

  • 母親からのLINE

2021年5月31日(月)

21時35分 不在着信

21時36分 不在着信

21時37分 お父さんが危ないみたい

21時42分 不在着信

 

LINEから電話がきても、自分の携帯電話はバイブもせず、音も鳴らなかった。

気づかなかった

 

リビングにいて嫁は風呂に入っていた。

 

テレビを見ていた時に嫁の携帯がなっていたことは気づいたけど、携帯が裏向きになっていたし、誰からかかってきたか見るのも気が引けたので、そのままにしておいた。

 

まさか母親から電話がきているとは気づかなかった。

 

嫁が風呂から出てきて電話を見ると、「お母さんから電話きてるよ!」と言われ、一瞬で嫌な予感がして急いで自分の携帯を見た。

 

LINEの内容を見た瞬間に、母親に急いで電話した。

 

折り返し電話したのは、22時8分。最初の電話から30分以上経ってしまっていた。

 

この出来事の前、5月27日(木)に母親からLINEがあって、父親が入院したと聞いていた。

その前の週にお腹が痛くて熱が出て、医療センターに入院したとのこと。

 

来週末には何もなければ退院だったようだけど、昨晩の夜から朝にかけておかしな言動があったみたいだった。

 

脳に異常は無いけれども、新たに何らかの細菌が入り、しかも体が弱ってしまっているということだった。

 

こんな内容をあらかじめ聞いていたから、LINE電話があったと分かった瞬間に全てを察した感じだった。

 

病院での先生からの話

病院の最寄駅からタクシーで急いで駆けつけた。

 

2020年からコロナウィルスが世界中で蔓延しており、2021年5月でもその状況は変わっていなかった。

 

そのため、通常病院は簡単には入れない状況だった。

けれども、その日は病院に入れた。深夜23時くらいだったと思う。

 

逆に「あ、他の人は入れないのに自分は病院に入れちゃうんだ。。。」と思った。

 

その時点で、おおよそのことは把握してしまったような気がした。

 

少しして、母親と兄も病院に駆けつけてきた。

 

母親は実家に暮らしていたけど、手が震えて車を運転できないということから、兄が30〜40分くらいかけて実家に車を走らせてから病院に向かってきたらしい。

 

病院に来るのは遅れたけど、正しい判断だったと思う。

 

家族で久々に喋った気がする。

 

病院では先生を待つ時間が長く感じた。

 

父親との窓越しでの面会

通常はこのコロナが蔓延しているご時世、なかなか病室の前まで行けないけれども、特別に病院が許可してくれた。

 

一人づつ病室の前の窓越しに父親を見てきてくださいというものだった。

 

母親、兄、私、私の妻の順番で向かった。

 

父親は寝ているようで、ベッドに右手を括り付けられて、左手には何か被せ物をしていた。

 

おそらく無意識に重要な点滴や酸素などの管を抜管されないように、という処置なのかと思う。

 

なんでこんな姿になっちゃったんだ。。。

 

父親との窓越しの面会が終わり、ようやく先生が来てくれ、小さい部屋に入って話をしてくれた。

 

急に父親の容体が変化したとのこと。

 

入院の経緯や病院での経過は以下の通り。

 

  • 父親が入院した経緯と病院での経過

・何らかの細菌が体内に入ってきて、お腹が痛くなり入院した

・高熱になり、病棟を映された(コロナを疑われたため、コロナ病棟に移動した様子。その後、元の病棟に戻ってきた)

・最初の細菌はおそらく死滅したが、急に容体がおかしくなったので、おそらく別の細菌が入ってきた

コロナの可能性がある

・意識がなく、非常に危うい状態

 

父親のCTスキャンの画像を見せてもらった。

 

「正常な状態」と「現在の状態」の2つを比較した画像を見せてもらった。

 

・脳には異常がなかった

・肺は、一面に色が滲み出ているような感じだった

 

肺の中に水分が溜まってきており、吸えている酸素の量が少ないとのこと。

 

コロナが原因かもしれないから、PCR検査(コロナが陽性か陰性かわかる検査)を行なっているとのこと。

 

そして、最後に体力的が低下しており、助かる見込みが低いというようなことを言われた。。

 

翌日

病院ではすでに0時近くになっていた。

 

そのため、次の日に会社を休むために会社へ連絡などして、翌日は有給にしておいた。

 

実際は有給にしておき、いつでも動ける準備ができるように家でずっと仕事をしていた。

不思議なことになぜか集中して仕事ができた。

 

父親が今までやばい状況が何回かあったけど、奇跡的に無事だったということが何度もあったから、心の中で少し希望があったからかもしれない。

 

実は今まで父親は心臓が止まったこともあったらしいが、奇跡的に心臓のお医者さんが病院にいて一命を取り留めたとか、脳梗塞で倒れたけどたまたま脳外科の先生が病院にいたから助かったとか、奇跡だらけだった。

 

そして、2021年6月1日(火)のお昼に母親に病院から「PCR検査の結果、父親はコロナ陰性」との連絡が入った。

 

コロナ陰性のため、窓越しではなく面会させてくれるとのことだったので、15時に再度病院へ行った。

 

この日は、自分と母親と兄、兄嫁の4人で病院へ向かった。

 

父親との面会

担当医の話がある前に、父親と病室で一人づつ面会することができた。

 

父親はずっと「うー、うー、うー」と呻いていた。

体は寝返りのような感じで足や腕などは動いていたけれども、無意識に動いているようだった。

 

父親に意識はなく、話しかけても何も反応しなかった。

悲しかった。もしかして、もうしゃべることもできないのか。

 

正直、最後になるかもしれないと感じたため、父親に一方的にしゃべりかけた。

 

この話した内容に関してはここには書かないけれども、何年経っても自分は覚えていると思う。

正直、部屋に入った瞬間から泣きそうだった。

 

勘違いかもしれないけれども、父親に語りかけた時に父親の表情がニコッと笑ったような気がした。

本当にそんな感じがした。本当に笑っていたのかもしれない。

 

そして病室を出た。

 

実はこれが父親が生きている時に会った最後だった。

 

父親の意識がなかったけれど、父親が生きている間に言いたいことを伝えられたから本当に良かったと思う。

 

担当医の先生からのお話

病院のロビーで待っており、しばらくして担当医の先生が来た。

 

個室が空いていないので、オープンスペースでの話となった。

 

結論としては以下の通りだった。

 

  • 父親の病状

・新たな細菌が体に入ってきている可能性があるが、原因が全くわからない

・ありとあらゆる手を尽くしたが、原因となる要因が検査で引っかかってこない

・体がもともと衰弱しているので、原因が特定できても回復は難しい

・装置を使っているが、酸素を通常の80%か90%くらいしか吸えていない

・生きていられるのは、あと1日か2日

 

ある程度予想はしていたけれども、絶望的な内容だった。

 

母親も兄も絶望していた感じだった。

 

担当医の先生からは、コロナ禍のため病室で1人だけなら父親の部屋にベッドを持ってきて、一緒にいることが出来ると言われた。

少し考えることにした。

 

その後ロビーに戻り、病院側での意思伝達ミスがあったからか、なぜか看護師からは病室の中にずっといることは出来ないと言われた。

 

「あれ、そうなのか?」と思い、おとなしく帰らなければならないのかと思っていたところ、兄嫁が色々と言ってくれて看護師側の認識違いと分かり、結局ベッドを持ってきて父親と一緒にいることができるとのことだった。

(今振り返ってみると、この兄嫁の冷静さと行動力はマジで感謝だと思う)

 

父親の部屋に一人だけいることができるとなれば、その一人はもちろん母親である。

母親は疲れ切っていたが、一度家に帰ってから再び病院に戻ってくると言って、一度家に帰った。

 

兄と兄嫁、自分はひとまず家に帰宅した。

 

父親の状態

母親が病院に再度戻ってきたのは19時頃だったそうだ。

 

家で自分が待っている時に、母親からLINEが来た。

 

正直LINEの内容を見るのは怖かった。

 

20時12分

呼吸が弱くなってきた

昼間のあの声が、もう聞こえない

 

正直文面が怖かったことを覚えている。

 

とうとう呼吸が弱くなってきたか、、、

 

「うん」としか返信できなかった。

 

夜も遅くなってきていたので今日は明日に備えて寝ようと思ったけど、落ち着かなくなり、また体に緊張がずっと走っており、動悸も高鳴ってきていた。

 

これだけ緊張感が高くなりっぱなしだったのは、会社での配属部署に初めて行った日くらいだったと思う。

 

そのため、すぐに動けるように外出用の服を何となく用意していた。

落ち着かなかった。

 

普段ではあまり気にしていないけど、携帯がずっと気になっていた。

何回も携帯をつけたりしていた。

 

普段頻繁にしていた携帯ゲームは全くしなかった。する気が起こらなかった。寝れる気もしなかった。

 

先日の反省を生かして、携帯のLINE電話はバイブするように設定し直して、マナーモードを切って音量をMaxにした状態にしていた。

 

携帯が鳴らないことをずっと祈っていた。

 

 

…しかし20時58分、携帯が鳴った。やはり母親からだった。

 

今回は携帯が鳴ってから1秒以内に電話に出たと思う。

 

・お父さんの血圧がどんどん下がってきて、脈拍が30しかない。

・さっきお父さんに靴下を履かせてあげて、足をさすってたら脈拍が70位まで上がったんだよ。

 

そんな内容だったと思う。

脈拍って普通どれくらいなんだ? 数字に強いはずの頭が冷静ではなくなってきた。

 

急いで病院へ行く準備をした。

 

嫁が風呂に入っている途中だったので、すぐに風呂をあがるように伝え、病院に行く準備をしていた。

 

でも7分後、

21時5分 息してないよ

 

最初は何のことかと思った。

意味を理解するのに少し時間がかかった。

 

少ししてようやく意味が理解できてきた。

 

あぁ、、、お父さん、だめだったのか

 

父親の最期

すぐに母親に電話したら、母親が「お父さん!お父さん!」と泣いている声で父親に喋りかけているのがわかった。

 

すぐに病院へ向かうことを伝えて電話を切った。

 

病院へ着いたのは22時頃だった。

 

病室へ向かうと、口をポカーンと開けた状態で父親が寝ていた

 

この光景が本当に衝撃的だった。

 

今日の昼は動いていたのに、今は口をポカーンと開けて動かないし喋らない。

ショックだった。涙がこみ上げてきた。

 

七十数年間(濁しておく)ずっと動いていた力強い体が動かなくなっている。

 

病室にいた母親も大きく肩を落としていた。

 

でも、父親の最期を母親が看取ってあげられたという事実は、せめてもの心の救いだった。

 

 

母親がその後にいくつか話してくれた。

 

兄の息子と娘(父親にとっては)が母親の携帯のLINE動画越しに、ずっと父親に「○○(父親の名前)ちゃん、がんばれー!」と声をかけていたらしい。

 

そしたら、父親が目をカッと見開いたという。

長い間目を見開いていたらしい。

 

孫の声を聞けて、最後に全力を振り絞ったんだと思う。

かなり嬉しかったんだろう。

 

その後、父親の息が「……………ふぅー」「……………ふぅー」「………………………………………」となり、

母親が、「お父さん、息忘れてるよ」と父親を胸を叩くと、「ふぅーーー」と息をしていたみたい。

 

そんなことが何回か繰り返されたとか。

 

それから、最後はスゥーと力がなくなり、安らかに息を引き取ったとのことだった。

 

最後は苦しまずに逝けたとのことだった。

 

普段から苦しんで死ぬのは嫌だと言っていた父だったから、その話を聞けて良かった。。。

 

母親が最後まで父親の名前を呼び続けていたから、父親が最後亡くなるまで最愛の妻に看取られながら逝けると喜んでいたかも知れない。

 

医者曰く、耳は最後まで機能しているらしいから、母親の声を聞きながら安らかに逝けたんだと思う。

 

もう聞けないけど、「今まで生きてきた七十数年間の人生はどうだった?楽しかったか?」と父親に最後聞いてみたかった。

 

赤ちゃんの時からうちらの面倒を見てくれて、子供が大人に成長してるのを見てきて、また自身は晩年は鬱になって辛かったこともあったと思うけど(父親が鬱だったことはこの時母親から初めて聞いて知った)、総じて人生は楽しかったのかな?

 

手のかかる心配の多い息子たちだったと思う。

高校卒業してフリーターになって、相当不安になったと思う。

 

結局、息子全員大学に行けて無事卒業したし、息子たちへの不安は無くなったのかな。

 

「終わり良ければ全て良し」なのかな。

 

この世にたまたま父親の子供として生まれてきて、父親と一緒に過ごしてきた期間は長かったし、反抗していた期間も長かった。

 

でも、もう父親と二度と話すことができない。今でも正直この感覚をどう言えば良いのか分からない。

 

父親が亡くなった後の病院で

父親の死後、先生が来て死亡診断を行った。

 

6月1日 22時1分 死亡を確認。 御臨終です。

 

看護師が父親の体を拭いたりなどしてくれ、その間病室の外に出ていた。

 

父親が亡くなった後に、いくつかやらなければならないことがあった。

 

葬儀屋は兄の伝手で手配しており、私はその葬儀屋に電話していつ来られるかということを確認した。

 

葬儀屋は1時間ちょっとで来てくれた。

 

その後、病室から父親の荷物をまとめて運び出し、父親を地下の霊安室へと連れて行った。

 

霊安室での葬儀のような儀式は初めて見た。

 

先生や看護師が花を添えてくれた。

 

霊柩車が到着し、父親を自宅へ連れて行った。

 

私は私の自宅に帰宅し、母親と兄が実家へと向かった。

 

帰宅後の実家にてペットが。。。

自宅に霊柩車が到着し、いつも父親が寝ていた和室へと父親を連れて行った。

 

後で母親から聞くと、ペットの犬が吠えて、父親を寝かせた布団の上に乗っかってから全く動こうせず、どかそうとしたら噛みつきそうな感じで大変だったらしい。

 

犬は匂いで父親は分かったと思う。おそらく何かを察知したのかと思う。

 

ペットの犬は父親とすごい仲良かったし、分かるもんなんだな。

 

まぁいつも一緒にいた父親が2週間くらい家に帰って来てなくて、せっかく父親が家に帰って来たのに自分の相手をしてくれないしな。。

 

コロナ禍での弟の帰国

今まで父親、母親、兄、兄嫁、自分、自分の嫁が出てきたけれども、弟もいる。

 

弟は何していたかというと、海外(日本から飛行機で7,8時間くらいの場所)に駐在していたので、コロナ禍では気軽に飛行機で移動ができない状態だった。

 

実は先週までたまたま日本に帰ってきていて、入院していた父親と話すことが出来ていたみたい。

それは本当に良かった。

 

その後、海外に帰り2週間の隔離生活をしている最中、この事態が起きてしまった。

(この時世では、コロナの可能性があるため2週間のホテル生活等での隔離があった)

 

弟の会社の人が非常に優秀で、すぐに会社の総務の人が現地語でPCR検査の手続きを強引に行ってくれ、ありえないスピードでPCRの検査が受けられて、すぐに日本に戻ってくることが出来たとのこと。

 

弟は納棺の儀式までには間に合うことが出来、父親に会うことが出来た。

 

納棺

父親が亡くなった2021年6月1日(火)の2日後の6月3日(木)に納棺を行う予定だったけれども、その日が友引だったこともあり、父親や母親の田舎の人たちから反対され、6月4日(金)に納棺を行うことになった。

 

6月3日(木)は会社を休んで、父親の納棺の時に棺の中に一緒に入れてあげるものを買いに行こうと思った。

 

父親は何が好きだったかなと思い返しつつ、お酒、タバコなど買おうと決めた。

 

意外と父親が好きな物を知らないな、と感じた。

 

父親が亡くなった後に母親から聞いたけど、時折お歳暮とか誕生日とかに送っていたすき焼きのお肉(結構高いやつ)や、国産うなぎの贈り物が実はかなり嬉しかったらしく、こんな美味しいもの食べたことない、とめちゃくちゃ喜んで食べていたらしい。

 

うなぎは一尾が大きくて肉厚だから、母親と父親で少しずつ小分けにして、こんな美味しいもの食べたことないと言いながら食べていたみたい。

うちらが食べると丸々一尾食べられちゃうんだけどね。

食欲もやっぱりなくなってたのかな。でも美味しく食べてくれてたみたいで嬉しい。

 

でも、知らなかった。

その話を聞いて、父親が生きているうちに色々美味しいものを贈っておいて良かったなーと思った。

 

デパートで父親はこのお酒が飲みたいかな、あのお酒が飲みたいかなと思いながら買い物をしていると、何だか泣けてきた。

 

プラスチック系はダメだったので、おつまみなどは買えず、紙箱に入った甘い物(カステラ)を買って帰った。

 

そして納棺の日に、父親の好きな銘柄のタバコ(HOPE)を棺の中に入れてあげた。

 

やはりというか兄もHOPEを買ってきており、3箱もタバコが棺の中に入った。

あっちで思う存分タバコが吸えるぞ。

 

お酒は本当はサントリーのウイスキーが良かったけれど、ウイスキーだとビンになってしまうので、紙パックの日本酒を入れることにした。

ウィスキーはお供物にした。

 

もう禁酒も気にせずに、好きなほど飲んでくれ。ずっと飲みたかったんだろう。

 

青いスーツも一緒に棺の中に入れることにした。(そういえばこんなスーツ着てたっけ)

 

あと、テレビとかでよく見る頭につける白い三角の布が葬儀屋さんから出てきて、本当に頭につけるのかと思ったけど、半円上の藁みたいなものに縛り付けて、頭の上に置いた。(実際は頭に着けないパターンもあるようだ)

 

その後、三途の川を渡れるようにと、白い布の鞄の中に6つの通貨お米を入れていた。

その白い布の鞄を父親の首からかけるのが、少し愛おしかった。

 

兄が財布も一緒に入れるとのことで、隠し銭を財布に入れて一緒に棺に入れた。

 

(私が安い金では三途の川が渡れないかもしれないと、本物の五千円札を中に入れようとしたら止められて、母親が千円札に変えた。結局その後に、本物のお金はNGとのことで、兄の息子が持っていたおもちゃのお金に変えた)

 

そして、棺のふたを閉めた。

 

母親へのサポート

母親が憔悴しきってしまっていたため、急ぎ母親のサポートが必要と感じた。

 

今は葬儀の準備などで母親は忙しいから、おそらく父親の死は実感できていないと感じた。

 

母親が忙しくなった時に急に父親が亡くなったことを実感し、精神的にまずい状態になってしまうのではないかと心配した。

認知症になってしまうケースもある、とWebの記事に書いてあったので怖くなった)

 

何ができるかということで、自分なりに以下の5つのことを行った。

 

・自宅にWifiを通す
・電子フォトフレーム(Wifi対応)を渡す
・Alexaを渡す(Amazon Echo Studio:かなりデカいやつ)
・母親をAmazon 会員登録する
・Amazon Fire Fox TVが見れる状態にする

 

物は6月2日に購入し、6月4日に実家に来てひたすら組み立て、セットを行った。

 

Wifi環境になっていなかったため、急ぎWifi環境に設定した。

 

運良くauひかりの回線があったので、新たに購入したルーターでWifi環境を構築した。

(父親がPCを有線で繋いで利用していたらしいが、家にWifiが通らない状態だった)

 

その後は全てが順調に行き、実家に快適な空間が生まれた。

 

Alexa(Amazon Echo Studio)と喋ることができるので、寂しさが紛れると思えた。

 

また、母親が韓流映画が好きとのことで(人気の「愛の不時着」を見たことがなかった様子)、Netflixと契約し韓流映画をたくさん見れるようにした。

 

電子フォトフレームはWifiで繋げることが出来て、息子や孫の写真が皆の携帯からアプリ(frameoというアプリ)で簡単に送ることが可能なもの。写真を送る人が海外にいても問題なし。

 

撮った写真をすぐにアプリから送信できるから、気軽に母親のフォトフレームに写真を入れることが可能

 

これで、変に母親のメンタルが崩壊するような環境にはならないはず。

 

かなり早く実現できたなと自分でも驚いている。

鬼の速さで、母親のための快適空間を作った。

 

「この対応の速さはさすが商社マンだろ。」と父親へ言った。

 

そして父親が家にいる間に全てセットできたので、「間に合った…」と小声で言った。

これで残された母親を心配する父親を安心させられるような気がした。

 

もしくは自分も悲しさを紛らわすために、何か自分で自分にタスクを与えたかったのかもしれない。

 

また、後日Dysonの掃除機も買った。

 

母親が掃除機が壊れてしまったと言っていたし、このタイミングで金をケチったらしょうもないし、お金の使い時はここだと分かっていた。

 

多分10万円くらいが一瞬で消えたと思う。

 

Fire Fox TV(Prime Video)、NET FLIXは、孫(自分の甥・姪)も気に入ってしまったみたい。

 

孫がまた来たいと言ってくれる家になるならまぁ良いか。

 

父親の告別式

父親の告別式は家族葬とした。

 

父親はど田舎出身なので本当は壮大にやりたかったけれど、やはりコロナ禍では大人数は呼べず、大人9名と子供2名の少人数で行うことにした。

 

葬儀での父親の笑顔の写真を見ると、何だか泣けてきた。

 

そういえば父親と千葉の海の家に行ったなー、とか田舎の川で釣りしたなー、その川で溺れたなーとか思い出した。

また泣きそうになった。

 

真言宗智山派のお坊さんが心のこもったお経を唱えてくれ、告別式は終わった。

 

棺にお花を入れるとき、大きい蘭の花3つをきれいに父親の頭の上に並べてあげた。

 

 

その後、車で火葬場へ移動後した。

 

火葬場の入り口で棺を特殊な台に乗せてから、部屋へと入って行った。

 

その部屋で、「これが父親の姿を見れる最期だよ。」と聞いてもう全てを覚悟した。

 

もう父親の、七十数年間も生きてきたこの姿形を見るのは本当に最後なんだな。

 

「今までありがとう」と小声で呟いた。

 

棺が奥へ行ってしまい、扉が閉じた。。。

 

 

棺を焼却している間、コロナ禍ということもありお弁当を各自の車内で食べた。

 

食べ終わってから会場に再度入ってまもなくすると呼び出しがあり、火葬場の部屋の方へ向かった。

 

 

そして、父親が骨になって帰ってきた。。

 

背骨には金具(ボルト)が付けられていた。今まで窮屈だっただろうに。。。

 

骨壺にお骨を入れていくけれども、どうやら骨の量が多いらしく係の人が骨壺の中で何回か骨を砕いた。

 

係の人が「骨を砕くことは珍しいです。体格の良い人だったのですね。普通だと骨を砕きません。」と言われた。

 

骨は健康だったようので、なんとなく嬉しかった。

 

骨壺は私が持ち、実家へと連れて帰った。

 

父親の祭壇

その日に葬祭業社の人が来てくれて、見事な祭壇を作ってくれた。

 

父親の元気だった頃の写真(兄の結婚式の時の写真)を置くと、感情が込み上げてくるものがあった。

 

一旦ここでひと段落なんだけど、忙しすぎて父親が亡くなったという実感がまだ込み上げてきてない状態。

 

これから実感していくようになるのかと思うけど、何とか辛いことは乗り越えて行こうと思う。

 

死後の世界がどんなものか分からないけど、お骨の近くで残された家族を見れる時間が少しでもあるといいなと思った。

 

今このブログを書いている時点ではまだ買ってないけど、立派な仏壇を買ってやろうと思う。

 

最後に

この記事は見つかりづらい場所に置いていますが、もしこの記事を読んだ方がいて両親のどちらかを亡くされたのなら、残された人のサポートに尽力してください。

 

人をサポートすると、逆に自分も心がサポートされているようになります。

 

両親がご健在であれば、お金だけでなく何か特別においしいものを贈ってあげてください。

 

また、後悔が無いように両親に親孝行でもしてあげてください。

 

私は父親には十分、親孝行したと考えています。

 

父親と言葉はほとんど交わさなかったけれども、かなりの逆境の中、息子が東大に合格して一流企業に就職して、結婚して、ということを父親は非常に喜んでくれていたようです。

 

父親本人からは言われなかったけれども、母親が教えてくれました。

 

昔はお金に本当に困っていた一家だったけど、今では息子3人が働いてちゃんと稼いでいて、時折実家にも大金を仕送りしている現実を見せつけられていたので、父親にも心配事や心残りはなかったのではないかと思います。

 

自分も後悔しない生き方をしていきたいと思います。

 

この記事は、今後自分では見ない気がする。

多分次にこの記事を見返すときは、家族の誰かが亡くなってしまったときなのか。

 

将来の自分がこの記事を書いたことを忘れていないといいな。。。

同じような境遇にいる人に、これで母親をひとまず助けられたので参考にして欲しいと思って載せています。

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